大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和53年(行ツ)55号 判決

上告人

乙山次郎

外一名

右両名訴訟代理人

鍵尾丞治

被上告人

芝税務署長

小畑修

右指定代理人

岩田栄一

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人鍵尾丞治の上告理由第一点について

本件において、本件更正処分がされたのちこれを増額する再更正処分がされたことにより、当初の更正処分の取消を求める訴の利益が失われたとしてこれを却下すべきものとした原審の判断は正当であり、論旨は理由がない。

同第二点について

憲法上租税に関する事項は法律又は法律に基づいて定められるところに委ねられていると解すべきところ(憲法八四条)、所論は、ひつきよう、特定の法律における具体的な税額計算の定めに関する立法政策上の適不適を争うものにすぎず、違憲の問題を生ずるものでないことは、当裁判所昭和二八年(オ)第六一六号同三〇年三月二三日人法廷判決(民集九巻三号三三六頁)の趣旨に徴し、明らかである。論旨は、採用することができない。

同第三点及び第四点について

所論の点に関する原審の判断は正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、いずれも採用することができない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(中村治朗 団藤重光 藤﨑萬里 本山亨 谷口正孝)

上告代理人鍵尾丞治の上告理由

第一点 法令違反

一、原判決は、上告人らが本訴において、再更正のほか当初更正の取消を求めている点につき、再更正が行なわれた場合には、当初更正の取消を求める訴の利益がないとして、その部分を却下した第一審判決を維持した。

二、然しながら、更正も再更正も、いずれも別個独立な行政処分であり増額再更正は、当初更正の効果を全面的に失なわせて、改めて新規に納税義務の範囲を確定するものではなく、その効果は増差額に関する部分についてのみ生ずるのである。

このことは、国税通則法の規定からも窺知することができる。即ち同法は、吏正・再更正の関係について見解のわかれるところを立法的に解決しているが、同法二九条は「……既に確定した納付すべき税額を増加させるものは、既に確定した納付すべき税額に係る部分の国税についての納税義務に影響を及ぼさない。……」といい、また同法二八条は更正通知書に記載すべき要件事実を「……増加するときはその増加する部分の税額。……」として、更正と再更正はあくまで別個独立の行為として併存する旨規定している。

また、一応申告、決定がされると、それ以後更正・再更正の処分がなされても、当初の申告・決定を基準として無申告加算税、過少申告加算税、或は重加算税などの賦課決定、延滞税、利子税の賦課もなされる。徴収権についての時効も、その都度個々に期間が進行するのである。

三、以上を綜合して考えれば、当初更正、再更正ともに独立して取消を求める利益があるのにかゝわらず、当初更正には取消を求める利益がないとしてこれを却下したことは、前記各法条、行政事件訴訟法八条、九条の規定に反し、破棄を免れないものと思料する。

第二点 憲法違反

一、原判決は、上告人らの所得について、被上告人が所得税法(昭和五〇年法律第一三号による改正前のもの。以下同じ)九六条ないし一〇一条の規定に基づき、いわゆる資産所得の合算課税の更正・再更正をしたことは憲法に違反するとの主張に対し、いずれもこれを排斥した。

二、然しながら、右資産所得の合算課税制度は、先づ憲法一三条、二九条に違反する。

(1) 所得税制において、いかなる生活単位をもつて課税単位とするかは、現行法制が累進税率をとつている関係で、極めて重要な問題である。これはその国の高度な政治判断に基づく立法政策の問題であろうが、基本法たる憲法の理念を無視して、全く自由裁量にしてよいということではない。

わが国の所得税制は、明治二〇年以来、課税単位を家族におき、家族合算課税制度を堅持してきた。それが昭和二四年のシャウプ勧告により、翌二五年、従来の家族合算制を捨てて、個人単位の課税制度をとつたのである。

これは、新憲法が従来の「家」の制度を捨てて「個人を尊重」し各人は「法の下の平等」であつて、他人の所為によつて自己の財産権は侵害されないという「財産権の不可侵」を宣言した、この理念に基づくものであつて、正に当然のことであつたのである。そして、世帯単位から個人単位へ、は、単にわが国のみならず、世界の趨勢となつているのである。

(2) そもそも資産合算制度は、所得税の累進課税制を回避するため、家族の名前を利用して脱税を図るのが常態であるという、いわば人間性悪説の立場を前提として初めて理解できるものであつて、それは真実自己の資産を有し、それから生ずる所得を、自からの名前で正当に申告・納税しようとする大半の善良・正直な納税者の良識を否定し、その良心を逆なでする制度といわねばならない。

この制度の適用下においては、個々の納税者は常に猜疑の目で見られ、到底「個人の尊厳」も「良心の自由・尊重」もありえない。

(3) これを本件においてみるに、上告人本原和満の昭和四八年の所得税の申告によれば、税額は四九万九、四〇〇円(源泉徴収税額三万円を控除した納付すべき税額四六万九、四〇〇円)であつたのにかかわらず、上告人本原幸(それは妻ではあつても法律上は他人)に配当所得四〇四万九、五〇〇円があつたため、いわゆる資産合算制度の適用をうけ、上告人本原幸の右所得を、上告人本原和満の所得とみなして加算し、税額計算し、上告人本原和満の納付すべき税額を五六万九、二〇〇円(確定申告税額より九万九、八〇〇円増)と更正し、更に五九万〇、九〇〇円(確定申告税額より一二万一、五〇〇円、更正税額より二万一、七〇〇円の各増)と再更正した。

このことは、上告人本原和満につき、元来の税額より、上告人本原幸に配当所得があつたというだけで、多額の税金を納める結果となつたのである。ということは他人の配当所得によつて自己の財産権が侵害されたということに他ならない。

三、次に、資産所得の合算課税制度は、憲法一四条に違反する。

(1) 憲法一四条は、「法の下の平等」を定め、社会的身分により、経済的関係においても差別することを禁止している。

従つて、生計を一にする夫・妻・子等の一定の身分者の存在により、一定の所得の種類についてのみ税額の計算の差別を設けて、他の場合と不平等な取扱いをすることは、右憲法の趣旨から許されないものというべきである。

(2) 然しながら、いわゆる資産合算制度は、生計を一にする夫や妻等の一定の身分者が存在する場合につき、画一的かつ普遍的にその資産所得を主たる所得者に合算させて累進的に高額な所得税を課す制度である。

(3) これを本件においてみるに、上告人本原和満は、前項(3)記載のとおり、配当所得を有する上告人本原幸が「生計を一にする」「妻」であるという一定の身分者であるがために、そうでない場合と差別され、そうでない場合より多額の税金を徴収されるのである。

一方、上告人本原幸についても同様、自己の所得が配当所得であり「生計を一にする」「夫」がいるというだけで、そうでない場合と差別されて、還付金額を減少せしめられたのである。

(4) 右の如き一定の身分者の存在が何故に差別を可として高額課税の理由となるのか、更に資産所得の場合に限つて差別を可として高額課税の理由となしうるのか疑問であり、それはとりもなおさず個々人の財産権の独立を認め、その平等を保障する憲法の趣旨に反するものであろう。

四、更に資産所得の合算課税制度は、憲法二四条に違反する。

(1) 憲法二四条は婚姻の自由を宣言するとともに、夫婦・住居・家族等の事項について、個人の尊厳を基調にすべきことを定め、これと矛盾する法律・制度を排斥した。

夫婦はその子供とともに同一住居に居住し、円満な家庭生活を営むことをもつて最大幸福とし、民法七五二条も正にこの趣旨から規定されたものである。

(2) 一方、資産合算制度の適用をみるのは、本件上告人らの如く「生計を一にする」即ち平易な言葉でいえば、同居している夫と妻の場合に限られ、同居していなければ適用をみないのである。要するに「生計を一にする」かどうかで、特例による合算課税(多額の税金)か、原則に基づく個別課税(少額の税金)かの差別がなされるのである。

従つて、多額納税を敬遠する賢明な夫婦は、やむなく「生計を一にする」という要件をはずすことを企てるに至るであろう。即ちやむなく別居するであろう。これは、個人・夫婦・家族・住居等の生活秩序を、法によつて破壊するものというべきである。

(3) 前記のとおり、国家は個人の尊厳、夫婦の協力・扶助、家庭生活の円満を積極的に推進・擁護する義務がある。それにもかかわらず資産合算の規定は右に矛盾し、国家自身より妨害行為を働くものということができよう。

五、資席所得の合算課税制度を定めた所得税法九六条ないし一〇一条は憲法三〇条、八四条に違反する。

(1) 国民は憲法三〇条、八四条の規定するところに従い納税義務を負うが、それは「法律又は法律の定める条件によることを必要とする」(租税法律主義)。この原則は、租税要件につき、できる限り厳格、詳細、明確に、しかも疑義を許さず一義的に規定されることを要請する。

不確定な概念、概括的条項、自由裁量の余地ある規定は、税務行政庁の恣意的解釈や判断を許し、その結果、不平等な税務執行に及んで、国民の基本的人権を侵害する虞れがあるからである。

(2) 而して、資産合算制度は「資産所得は名義変更が容易であり、単なる名義の変更により所得税負担を不当に軽減することが考えられる。このような租税回避行為を封じるため」に設けられたのである(田中二郎・租税法三八一頁・有斐閣全集)。

然しながらこの制度を規定する所得税法九六条以下は、必ずしも明確にその旨規定されておらず、生計を一にする一定範囲の親族に資産所得があれば、それが名義分散であるかどうか、租税回避行為であるかどうかにかゝわらず、すべて一様に適用されるかのような条文となつている。

(3) これは前記租税法律主義に違反し、違憲といわざるを得ない。

六、以上考察のとおり、資産所得の合算課税を定めた所得税法九六条ないし一〇一条は、憲法一三条、一四条、二四条、二九条、三〇条及び八四条の各規定に違反し、無効の規定であるに拘らず、これを看過して右制度の適用を肯定した原判決は、破棄を免れないものと思料する。

七、なおここで原判決の判断が不当であることにつき論及すれば、

(1) 原判決は、資産所得合算課税の制度が、資産所得の恣意的分散防止だけでない、仮りにそれのみを封ずるのであれば、所定の場合についてだけというのはおかしい旨断ぜられる(原判決理由欄の三丁表―裹)。

然し、右は、上告人らの問に答えていない。上告人らも資産所得の合算制度が所得税法所定の場合についてのみ適用されるのは違憲であると主張するのである(前項まで御参照)。それと右制度が課税回避のみを目的とすることは全く次元を異にする問題である。

(2) また原判決は、担税力というものはすぐれて税法的な問題の解決の仕方いかんによつて左右されるものであつて、憲法の基本原理たる個人の尊厳や法の下の平等の原則から当然に導き出されるものではないという(原判決理由欄の四丁表)。

然し、右論は明らかに間違つている。税法の基本をなすといわれる担税力といえども(なるほどそれは高度な政治判断に基づく立法政策の問題ではあろうが)、税制度の中の一制度であつて、租税法律主義の枠内で論ぜられるべきである。従つて、憲法の基本原理から「当然に導き出される」かどうかはともかくとして、この基本原理と矛盾することは許されないのである。

(3) 更に、原判決は、資産所得にあつては給与所得等と異なり所得を得るための経費等担税力の減退を来たすべき事由がないといわれる(原判決理由欄五丁表)。

担税力の減退を来たすべき事由がないのは、何も資産所得に限つたことではない。土地の値上りをまつて売却する譲渡所得――これが最たるものであろう。このように他の所得には目をつぶつて資産所得のみ「担税力の減退を来たすべき事由がない」として合算課税とするのは不公平、不合理というべきであろう。また、右原判決自体ほのめかすように担税力の平等は(課税単位を個人とする原則を貫ぬく限り)経費等の諸控除によつて果すべきであつてこれを合算制で逃げることは原則の一貫を欠くものである。

(4) 最後に原判決は、生計を一にする一定範囲の親族間では、緊密な経済的協力関係から、少なくとも資産所得に関する限り、世帯主が主帯員のそれを管理・処分したり、自発的に共同生活のために提供するのが、わが国における一般実情である旨述べる。

然し、これは法律で合算を強制すべき事由になるであろうか。情誼の問題として法律が立ち入らぬことが良いのではなかろうか。仮にそうでないとしても「一旦緩急ある場合に」「自発的に提供する」のが、何故「少なくとも資産所得に限」られるのか、他の所得にはそういうことはないのか。仮りにそのような場合には従来他の法律関係(例えば贈与等)として捕えており、現にこれで充分ではないのか。

以上みたように、資産所得のみに限つて合算しても違憲ではないとする原判決の理論は、到底吾人を肯首させるものではない。

第三点、第四点〈省略〉

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